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「わたしは救われた」
高円寺教会主任司祭の説教集第三集が、今月末に出版されることになった。今回のタイトルは、「わたしは救われた」とした。相変わらずの直球タイトルに自分でもめまいがしそうだが、変化球や死球ばかりで閉塞する世の中に、気弱でドキドキしながらも直球を投げ込むキリスト者がいてもいいだろうと、自分を励ましている。
高円寺教会主任司祭の説教集という言い方をしたのは、これが本質的に「わたしの説教集」や「晴佐久神父の説教集」ではなく、「高円寺教会の説教集」だからだ。いつどこで話されても同じ説教や、誰が誰に話しているのかわからない説教ではなく、これはあくまでも2005年春から2006年春までの一年間、晴佐久神父がカトリック高円寺教会の主日のミサで、目の前の仲間たちと、その辛い現実に向かって宣言した説教である。言うなれば「わたしたちの説教集」であり、それはつまり「わたしたちの救いの歴史の説教集」なのである。
ヨハネ・パウロ二世の死の意味を語る説教で始まり、前夜86人が洗礼を受けた復活祭の福音宣言で締めくくられるこの説教集によって、確かに神が自分たちの教会に現実に働いているという聖なるリアリティーを感じてほしい。実際、順を追って読めば、まるで神が書いた筋書きでもあるかのように感じるはずだ。
春には人生の相談に来る青年の話が目立ち、夏には彼ら向けの召命の話が多く、秋には召命塾が発足したという話になり、冬にはその塾生から第一号が神学校に入ったと、説教中に報告している。春に「何も信じられない」青年にカトリック入門の本を貸せば、秋には元気にコンサートを成功させ、降誕祭に初めてミサに与り、年明けにはその彼が洗礼を決意している。
神は人を救っているし、人は現実に救われている。これからも、まずは自分自身が救いの歴史に与るものとして、「わたしは救われた」と宣言し続けたい。そして、「わたしは救われた」という人たちの喜びと感動を教会全体で共有するために、説教を頂点として語っていきたい。
自らの救いの体験、自分たちの救いの歴史を、自らの言葉で語ること。教会の基本である。
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