2007年9月23説教(PDFファイル)

晴佐久昌英神父説教 

2007年9月23日
 
年間第25主日(C年)
        

 第一朗読 アモス    8:4- 7
 第二朗読 一テモテ   2:1- 8
 福音朗読 ルカ     16: 1-13
  福音朗読  音声

<欠けたところを満たす方>

 もちろんお金は大事です。いまやお金なしにこの世を生きることは出来ません。しかし問題は、そのお金以上に大切な神をお金以上に大切にしているかどうか。すべてはそこです。神のみこころを生きること。永遠の命に入ること。最も大切なことを最も大切にする人は、二番目以下のものを一番目のために使います。お金は大事です。問うべきはそれをなんのために用いるかということでしょう。

 お彼岸ということで、昨日、両親の墓参りをしてまいりました。お墓の前で、「半年間のサバティカルに入ります。どうか守ってください」など、虫のいいことばかりお祈りしてきました。「パリのアパートをありがとう」とか。って言うのは、一人暮らしの母が死んだので、実家のマンションを売っちゃったんですよ。そのお金を、兄弟3人で山分け。(笑)それでパリのアパートを借りるっていうこともあって、「晴パパ、晴ママ、ありがとうございます」。結局、幾つになっても親の世話になっているというわけです。もしかすると今回のサバティカル自体、初めから天国の両親が上手に計画していたのかもしれない。
 わたしの両親は、お金のことをとてもきちんする人でした。きちんと考えて、上手に計画する人たちでした。おかげでわたしが21歳のときに父が死んだ後も、兄弟3人がひどくお金に困るということもなく、みんな大学を出て、借金もなく暮らせて来れた。父は中堅建設会社の経理畑一本のサラリーマンでしたけど、亡くなった50歳のときはもう経理の取締役をやっていたというお金の専門家でした。お金については厳しかったですよ。子どもが小学校に入ったら子ども名義の銀行通帳を作らせてお小遣いを自分で管理させ、「保証人にはなるな。簡単に判はつくな」とか(笑)、そんなことまで教え込んでいた。
 そういう父でありながら、彼は、今日のこの福音書の個所が好きだったんですよ。「不正なこの世の富で友を作りなさい」というこの個所が。彼自身は、職場ではお金中心の現場を生きてましたし、「この世の富」について誠実に忠実に生きておりましたけれども、彼の心はあくまでも信仰第一、教会第一、神さま第一の人でした。だから、この世の富に忠実に生きながらも、最終的にはすべて神に捧げていくという覚悟というか、信念を持っていた人でもありました。

 どうでしょう、皆さんもお金のことで色々きっとお困りでしょう。教会だってお金のことで色々苦労したり工夫したりしています。ただ、それらはすべて何のためかという信仰の眼差しがなくなっちゃったら、そこにあるのはもうただ空虚なこの世の数字合わせに過ぎません。預かったお金をちょっと拝借して使っちゃいました、バレなきゃいいでしょう、みたいな話が最近しょっちゅうニュースで流れますけれども、横取りしたこと以上に悲しいのは、その使い道があまりにも情けない内容だということです。そんなことのために魂売ったのかと。信仰の眼差しがないと、人は限りなくこの世の富にこだわります。すべては神から与えられたものだから、すべては神にお返しするものであるにもかかわらず。
 お金って、面白いですよね、あれ自体ではなんの役にも立たない。ただの金属や紙に過ぎない。何かに換えない限り、なんの意味もない。あえて言えばその場で当たるスクラッチくじを削るとき、10円玉とか役に立ちますけど。どうせハズレなんですけどね(笑)。本質的に、お金は何かに換えるためにある。じゃあ、何に換えるのかって話ですよ。そこに、その人のすべてが現れる。イエスは「あなたの富のあるところに、あなたの心もある」と言いましたけど、まさしくすべての富は、そのままその富を持つ者の心を表しているのです。
 考えてもらいたいのは、人がなぜ富に執着するかと言うと、だれもが小さいころから何か決定的に欠けているからだ、ということ。根本的に足りないものがある。満たされないものがある。それがなければどうしても満足できなくて、人はなんとかそこを満たしたい。だから、なんにでも換えられると言われれば、人はまず、それで自らの欠けたところを満たそうとするのです。しかしですね、実は、その人の欠けたところ、足りないところって、この世のものでは絶対埋められないんですよ。だから現に、みんなどれだけ富があっても決して満足しないじゃないですか。

 今日の午後、「ヴォイス」っていうライブを、教会のホールで開きます。教会の青年とその友人たちが、自分の書いたことばで、自分で作った曲を、自分の声で歌うというライブです。三年前に彼らをけしかけて無理やり作らせてから、もう今回で5回目になります。せっかく自分なんだから、その自分を歌ってくれよという願いをこめて、まさに「声」、ヴォイスなんだけど、結構感動的ですよ。
 数日前、深夜テレビで、とある歌のオーディション番組をやっていて、しろうとがプロを目指して一生懸命歌ってるわけです。まあ、それなりにうまいんだけど、聞いててもどうも心に響いてこない。案の定、歌い終わったあとで一人の審査員がたったひと言、「うーん・・・何も感じない」。厳しいですねえ。で、その審査員が、ジャニス・ジョップリンっていう歌手の言葉を紹介してました。アメリカの若くして死んだ伝説の女性ロックシンガーですけれども、彼女がこう言ったと。「わたしは、自分の中の足りないところを埋めるために歌っている」。それくらいの必死さで、「これを歌わなければ自分じゃない」くらいの覚悟で歌ってくれ、みたいなことを審査員が言ってて、ちょっと心を打たれましたね。
 そうなんですよ。人は、足りないところ、決して埋められないコンプレックスなどを埋めるために生きているんです。わたしだって、こうやってなんだか一生懸命しゃべってますけど、これ、みなさんのために話していると同時に、自分の欠けたところを満たすために語っているのでもある。自分が信じたことをみんなと共有することで、自らの足りないところを埋めて、救われているんだと思う。もちろん神がそのようにしてわたしを使っているわけだけれども、そうでもなければ、人って普通こんなに毎週毎週一生懸命しゃべりませんよ。
 だれもが、自分の足りないところ欠けたところを埋めようと精一杯なんです。だからそのために金を集めて安心しようとしたり、その金を使って不安や恐れをまぎらわそうとしたり、いろんなことをしてるわけですけれども、この世の富で自らの欠けたところは満たせない。そんなことは断じてありえない。つかの間ごまかせたとしても、そのあとでいっそうの不安と恐れに囚われる。
 やっぱりわたしたちのこの足りないところを埋めてくれるのは、それは信仰であり、希望であり、愛であり、神そのもの以外にはない。イエス・キリストをおいて他にない。わたしたちは、そう信じて洗礼を受け、こうしてミサに集まっている者です。だから、与えられたこの世の富を、その神のため、福音のため、キリストの教会のために使うときにこそ真のキリスト者だと言えるし、与えられた才能を用いて自分自身を歌い、福音を語るのも、二番目以下のものを神に捧げるためです。たぶん、神さまは、そうして本当に神の愛という最高のものをちゃんと求めさせるために、わたしたちに欠けたところをくださったんじゃないですか。皆さん何か足りないところがあるのは、不満や不安があるのは、神を求めるための、神さまからの最高の贈り物なんじゃないですか。

 洗礼式の報告をいたしましょう。この聖堂で洗礼を受けたかった、あの四つ葉のクローバーを見つけるのが上手な彼女は、やっぱり病院を出ることが出来ませんでした。ほんとは先月ここで洗礼を受けるはずだったのに、洗礼式の前日に骨折して、洗礼を受けられなかった。そうして、再びの機会を心底待ち望んでいたんですけど、全身の骨のがんが進行して、それもかないませんでした。
 それで、先週、教会の仲間たちで病院に出かけて、病床での洗礼式をいたしました。信仰の仲間たちといっぱいの花に囲まれてね。本人とそのお母様も一緒に洗礼受けたんですけれども、本当によろこんでましたし、感動的な洗礼式になりました。囲んでいる人たちも思わず涙こぼれる、美しい洗礼式でした。
 彼女にも、欠けたところがたくさんあったわけですよ。心も、健康も、いっぱい欠けていて、いっぱい足りなくて、いっぱい不安で怖くて、だから、もはや神に満たしていただくしかなくなった。でもそれはなんて幸せなことでしょう。神さまに満たしてもらったら、だれよりも豊かになれるんだから。今まで色んな教会を回ってきた方ですけど、かえって足りない気持ちが増したり、かえって恐れが強くなったりする体験をしてきました。しかしこのたび、ついに彼女は、自分の欠けたところを完全に満たしてくださる方に出会えたのです。その方の愛に目覚めて、洗礼を受け、永遠の神の子となったのです。先月、この聖堂の一番後ろで洗礼面接をしたときのことを思い出します。その辛い現実と、清い信仰を知って、ああ、神がここに働いていると感動しましたし、その願いが実現した洗礼式は、神の愛が目に見える形で実現した美しい瞬間でした。
 彼女が求めていたものは、ほんとにもう、痛みのない朝とか、不安のない穏やかな日々とか、ぎりぎりのことだったはずでしょう。いや、彼女が一番求めていたのは、たとえ痛みの激しい朝であっても、恐れにとらわれる夜であっても、それでも神さま、あなたの愛を、あなたのみこころを信じますという信仰であり、永遠の命への希望だった。それが足りなかったから、そこが欠けていたから苦しかった。そして、洗礼式の瞬間、彼女はそのすべてを手にしたのです。わが子を完全に愛してくださる神の愛を。うらやましいですよね。彼女は今、この世の富をまったく必要としておりません。

 ただいまから子どもの洗礼式をいたしますけれども、子どもたち、おめでとう。脅かすわけじゃないけれども、これから、悲しいこと、つらいこともきっとあるでしょう。それが人生というものです。しかし、恐れることはありません。今あなた方が受ける洗礼は、あなた方の足りないところ、欠けたところ、すべてを満たしてくれる、神の恵みです。それがあればもう大丈夫。なんの心配もない。恐れることなく、神の子となってください。子どもに欠けたところを満たす方こそが、あなたの親です。
 洗礼を受けるお子さんと、両親、代父母の方は前に出てください。

Copyright(C) 2007 晴佐久昌英
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