2003年4月27日説教 
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晴佐久昌英神父説教       
2003年 4月27日

ヨハネ20・19−31


題:私の主、私の神よ

 5年間この説教壇で、まあいろいろとお話ししてまいりましたけれども、いよいよ今日で最後ということになりました。一体何をしゃべってきたんだか、自分でも不思議な気がいたします。幸いというか、ここで話されたことはテープ起こししたものがプリントになって残っておりますので、戯れに思い起こしてみたくなったら、めくってみてください。この説教壇で夢中になっていろんな話をしてきた事、私自身も忘れてしまった事が、いつか役に立つことがあるかもしれません。しかしいずれにいたしましても、説教っていうのは実は何を言ったかなんて事は本質には関係ないと言いましょうか、どうでもいい事なのだと僕は思っています。人の言葉には限界がありますし、聞くほうも結構勘違いして聞きますし、どうせそのうち忘れてしまいますし・・・。大事な事は語る方も聞く方も、そこに聖霊が働いているという体験をする事が重要なんじゃないでしょうか。説教も含め、ミサは理屈を超えた神の世界を体験する場だからです。そんな意味では今日は最後ということもあって、もういろんな思いが溢れてくるので、何を話せばいいのか困ってしまいますが、ここで「何を話すか」ということよりも「確かにここに聖なる霊が働いているんだ」と、みんなに味わってもらいたい。それこそがミサの意味ですし、説教の意味も皆さんが今ここで働いている聖なる霊の働きに自分をゆだねるお手伝いにあるのです。ホイヴェルス神父さんでしたか、「今日は聖霊が下ってこないので説教は終わり」と言ってそのまま座ってしまったという逸話がありますけれども、かっこいいですね。一度そんな事をやってみたい気もするんですが(笑)ダメなんですよ、聖霊が下ってきちゃうんですよ(笑)。まあ、これが聖霊なのか勘違いなのか何の確証もありませんけれど、少なくも自分ではそう信じなければアウトでしょうね。私は司祭っていうものはみんなの前に秘跡として立てば、そこに聖霊が働いて、みんなの中にも聖霊が働いて、そこに何か交響楽のような響きが生まれてくる、そのための指揮者のようなものなんじゃないかと思います。指揮者は時として、その曲に完全に没頭して、まるでその曲そのもののようになって指揮をしている。もちろんその前にはよい準備をしてみんなと信頼関係を作り、一人一人の楽器を響かせるために「もっと自信を持ったほうがいいよ」とか「もっと互いの音をよく聞き合うように」とか、関わる事も必要ですけれども、それは何のためかと言うと、このミサという究極の音楽、神の作曲をした交響楽を奏で、こんな大きな感動と喜びがあるという体験をお互いに分かち合って、この暗い世の中で輝きをもって生きていくためです。司祭はそのために聖霊が下ってきやすいひとつの空っぽな存在になって皆さんに奉仕する、そのようなものなのでしょう。今まで5年間この指揮者の個性を通してどんな風に聖霊が働いたのか、それは神だけがご存知の事ですけれど、今日はその聖霊の働きというものが今ここで実際に起こっているのだという事を改めて強調したいのです。「司祭などという不思議な存在が目の前にいて、主イエス・キリストの復活という出来事が今ここで起こっているんだ、司祭はその神秘を体現しているんだ」、それを味わってください。カトリックのミサというこの尊い、ほかのどこにもない最も美しい集いを皆さんはこうして一緒に体験しているのです。

 イエス様が今日弟子達に息を吹きかけましたでしょ。ふーっと息を吹きかけた。弟子達にとってはこれは本当にリアルな体験でありました。彼らの心情を思ってください。何しろ真っ暗闇だったんだから。最も大切な先生を失って、自分が命がけで全てをかけてきた活動も終わってしまって、絶望の底にあった。「私も殺されるかもしれない」という恐怖で家の中に閉じこもっていた、そんな真っ暗闇の中にあのイエスが来て、神の祝福を与え、息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言う。これが弟子達にとってどんなに嬉しい体験だったか。幻ではない、そこにいる全員で体験した事です。そのリアリティ。キリスト教がそれ以降ビックバンのように爆発的に広がっていく、その一番最初の根本に起こった出来事は、出会い・再会の実体験です。キリスト教とは体験なのです。その喜び、そのリアリティ、それを皆さんに感じてほしいのです。このイエス・キリストが吹きかけられたその息は、今日も皆さんに神の息吹としてちゃんと吹きかけられています。それに気づいてもらうというのが司祭の奉仕、役割です。この復活の出来事が遠い昔のお伽噺ではなく、まさにここで今起こっている事であり、これからも何千年も起こりつづける事なのです。高幡教会のこの主日のミサで、イエスは今皆さんに息を吹きかけておられる。そのリアリティがキリスト教です。「今日聖霊降臨がこの集いに起こるように」、司祭は常にそう思ってミサを捧げます。と言っても実際には神の息は常に吹きかけられている。しかし普段はそれに気づかない。心が閉ざされて悩みの底に沈んで、復活の喜びに目覚める事ができない。そんな私達はこの主日のミサに集まって聖なる息吹にしっかりとその身をさらしていただきたいのです。「ミサって本当にいいなあ」と、心の底から感じてもらえれば、ミサに奉仕してきた者としては最高の喜びなのです。ずいぶんミサに・・・私も何千回もミサに与った末に神父にまでなって、何千回もミサを捧げてきましたけれど、いまだそのミサに秘められた力を知らないと言ってもいい。ミサの素晴らしさ、その力の全てをまだ何も私達はわかっていないと思う。ひたすら皆さんでこれからもミサを続けて「このミサにこそ答えがある。救いがある」とそう信じて、ミサを極めてまいりましょう。司祭はあっちに行ったりこっちに来たりしますけれど、ミサはたったひとつのミサ。イエスが今も捧げ続けるミサがあるのみです。私達はミサに集わなければなりません。いつも一緒にいなければなりません。トマスはどこに行っていたんでしょうね。みんなと一緒にいればよかったのに。どこかに引きこもっていたんでしょうか。一人ぼっちで町をうろついていたんでしょうか。みんなと一緒にいて、みんなと一緒にミサの神秘を体験して、その時に始めてトマスも「私の主、私の神よ」そういう信仰告白ができた。絶望の闇の底で復活の光を仰ごうとしても、ミサ無しには無理だと思います。御聖体との一致なしには無理だろうと思う。

 初聖体の子供達にとっては今日が最初の聖体拝領。22人の子ども達の聖体拝領は我が教会にとって大きな喜びです。これが今日も神の息吹によって現実に起こっている尊い出来事です。先週の復活祭では洗礼を受ける人に「洗礼式こそが、その生涯で最も尊い瞬間だ」そうお話ししました。でも幼児洗礼を受けた子供達はその「最も尊い瞬間」を覚えていないので、今日この初聖体がまさに皆さんの記憶に残る人生の最も尊い瞬間です。今ここで神が皆さんにいのちを与えています。これからそのいのちのパンを食べ続けるためにいつもミサに出てください。何か困った事があったらミサに戻ってきてください。このミサに神様の息吹きが満ち溢れていて、このミサに答えがあります。何か新しい特別な方法を編み出す必要はありません。子供達よ、何があってもミサに帰ってきてください。みんなと一緒にいて下さい。どんな苦労をして悩んでいたとしても、何か迷ったりがっかりしていたとしても、ミサに戻ってくれば主キリストが「あなた達に平和があるように」と言って聖霊の息を吹きかけてくださいます。これ以上の喜びはないという体験を重ね、これから何枚でもいのちのパンを食べて、神の子供として信仰のうちに歩んでください。

 これ以上聖霊が降ってこないので(笑)、何か特別な事を申し上げるつもりはありません。ただ晴佐久神父という一人の存在と出来事を通して、皆さんがミサの素晴らしさというものに少しでも馴染んでくれたなら何も言う事はありません。3日ほど前にフランスから、私の親しいシスターが電話してきて、「私、分かった」って言うんですね。「はれれはネオ・オーセンティックなのよ」と熱っぽく話すんですよ。「はれれ」って私の事ですけど。オーセンティックってオーソドックスのことですね。「ネオ・オーセンティック」っていうのは「新正統派」という事で、彼女の造語でしょうけれども、今「ネオコン」が跋扈していますでしょ。「ネオ・コンサバティブ」つまり「新保守派」ですね。ブッシュとかラムズフェルドとか、ああいう野蛮が世界に君臨している時に、似た言葉だけれど全く逆の意味の「ネオ・オーセンティック」が世界を救うんだという事を熱っぽく話してくれて、「ああ、そんな風に言ってもらえるのは名誉だな」と思った。「ネオ・コンサバティブ・新保守派」っていうのは、伝統とか保守とかを原理主義的に守って、結局は全てを今の自分の利益のために使おうとするような傾きです。「ネオ・オーセンテイック」・・・ネオ・オーソドックスに意味があるとするなら、それは伝統とか保守とかの本質にある神秘を見極めて、全てを普遍的な利益のために生かそうとするセンスです。正統であるって事はそういうことでしょう。カトリックで言えばミサとかご聖体とか、そういう原点の中に最も尊い普遍的な力があってそれを今の時代に生かす形で改めて大切にいたしましょうっていう、それこそが世界を救うのだと言うようなそういう信念を持つ主義のことです。でも考えてみたらカトリックって常にオーソドックスですし、「ネオ」なんて名付ける必要もないかもしれない。オーソドックスとネオオーソドックスがあるわけじゃない。オーソドックスは常にどんな時代でもネオの輝きを失わずに人類を救う正統であり続けているからです。多分常にその時代を生かすオーソドックスというネオの輝きを今の半端なオーソドックスが失いかけたりもしているので、シスターは「ネオ・オーセンティック」と名づけてくださったのでしょうが、本来教会の役割は「これが本物だ」という事をその時代その時代に身をもって訴え続ける事であるはずです。今の世界はカトリックを必要としていると思う。真のオーソドックスを必要としていると思う。この世界は罪と悪に満ちていますが、私達が許せば全ての罪は許されるのです。私達が遣わされれば全ての人に福音が伝わるのです。それはイエスが与えてくれた正統の力です。

 どうかどうかカトリック教会、その中でもミサ聖祭、とりわけ聖体拝領、これが今この世界にあって最も尊い秘跡であり、そこに集っていれば必ず答えが見つかり救いがあるということを忘れないようにして下さい。皆さん、ミサから離れないように。どんな時でも「私の主、私の神よ」と信仰告白できるように。そうしてイエス様から「見ないのに信じる人は幸い」と言ってもらえるように。今日の御聖体拝領を正統な聖体拝領としていただきましょう。神様、高幡教会の上にどうか大いなる恵みを注いでください。この教会があなたのみ旨にかなったものとして、尊いミサ聖祭を捧げ続ける集いとしてこの地で輝きを放ち続けますように。私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。

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